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●歴史概説 ●寛永年間 ●明治31年 ●大正31年 ●昭和25年 ●昭和47年 ●昭和62年 ●平成13年

 

1.太田川デルタの形成

新開地発展略図(※広島市公文書館提供、出典「図説広島市史」) 

無断二次利用禁止

 

(ご覧になるには、FlashPlayerが必要です。)


上の図をご覧になって「これはいったい?」と思われた方は少なくないのではないでしょうか? 今私達が踏みしめている広島の 三角州の殆どは「人為的に埋め立てられて形成された人工の三角州」なのです。 「太田川史(建設省《現国土交通省》中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」には次のとおり記述されています。

「近世の初め、諸大名は領国経営のため新田開発に積極的に取り組んできたが、広島藩でも17世紀後半から18世紀初めにかけて、干潟を干拓する大規模な新開事業を推進していた。 (中略) 干拓事業が積極的にすすめられた結果、享保20年(1785)までに検地を受けた干拓地の面積は、総計678町歩(671ha)に及んでいる。 干拓地は人為的に陸地化された旧海底三角州(旧干潟)であり、これを自然三角州と区別して人工三角州と呼んでいる。 その最も重要な特徴は、干潮時のわずかな時間を除いて、つねに海面下にあるるということである。 百万都市広島の枕詞として「デルタの街」が使われるが、そのことは反面、『危険との接触』であるということの認識が必要である。 海側への陸地の拡張は明治・大正時代にも積極的に進められた。 (中略) 以上の干拓はいうまでもなく干潟を排水、陸地化させたものであるから、新しい時代の干拓地ほど地盤が低い。 藩政時代の干拓地は海抜1〜1.5mあるが、明治以降のそれは0.3〜1mであり、特に宇品地区の部分は0.5m以下の低湿地である。」

どうです?ちょっとビックリしますよね。 私は今まで、水辺都市広島は臨海部を除いて殆どが自然三角州だと思っていました。

なお、平和大通りにある白神社の本殿下の花崗岩岩体は、広島城築城当時の海岸線近くにあった岩礁だそうです。

 

2.もう少し遡って広島城築城と太田川流域

 

(サイト管理者撮影 2005.12.18)

 

天正17年(1589)毛利輝元は城を吉田から広島湾頭の五ヶ浦に遷しました。この鍬初めの時に五ヶ浦から「広島」と言われるようになったということです。 しかし、この地は低湿・軟弱な三角州の中にあったため「島普請」と呼ばれる難工事から始められ、城郭と城下は慶長4年(1599)に完成しました。

 

その後広島城の城主は毛利から福島へ、そして福島から浅野へと変ります。

出典:「太田川史 建設省中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」

国土交通省太田川河川事務所提供無断二次利用禁止

 

出典:「太田川史 建設省中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」

国土交通省太田川河川事務所提供無断二次利用禁止

 

出典:「太田川史 建設省中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」

国土交通省太田川河川事務所提供無断二次利用禁止

 

浅野藩250年の歴史(1619年〜1871年)において、太田川流域は藩の直轄地だったそうです。 この時代、高田郡や山県郡などの北部地域との物資輸送には太田川水系の水運が大きな役割を果たしました。 浅野時代の初めは三篠川筋からは年貢米、本流筋からは木炭・木地・紙などが運び出され、芸北地域で商品生産が盛んになる後期には鉄をはじめとする各種貨物の輸送が増えました。

 

3.太田川の名の由来

中世の太田川下流は、当時の佐東郡(現在の安芸郡や広島市東区)の名をとって佐東川と呼ばれていました。一方、上流の戸河内から加計・筒賀一体は太田郷と呼ばれ、そこを流れる川が太田川と呼ばれていたのです。

このように上流と下流で呼び名が違う例は他にもよくありますが、近世になって太田川の舟運が上流(加計)から下流まで通じるようになると、全川で通用する呼び名が必要になったと推測されます。 佐東川の名が消え、太田川となるのは、寛政4年(1792)の都名改正以降と言われているそうです。

 

参考文献 「太田川史 建設省中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」