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太田川放水路事業

放水路があってこそ、今日の水辺都市広島がある。

※以下、太田川放水路事業の歴史を「太田川史(建設省《現国土交通省》中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」を引用して記述します。

 

(1)戦前の改修とその中断

「改修計画の基本は三角州を流れる七筋の川のうち、西側の2本(山手川・福島川)を利用して一大放水路を掘り、大部分の水をこれより排水させ、市内および広島港を守るという考え方である。」

出典「太田川放水路 建設省中国地方建設局太田川工事事務所」※無断二次利用禁止

 

「昭和9年4月1日には盛大な太田川改修工事起工式が挙行され、工事が開始された。 工事は河口部の浚渫・築堤・護岸から順調に進捗したが、戦時色の強くなった昭和12年頃より予算・人員に圧迫が加わり、また事業が民家・交通機関の密集する中流部に移るにつれて、用地買収、本工事ともに複雑になり、新規着工は次第に困難になっていった。(中略)そして昭和19年、戦局の激化によって工事はついに中断された。(中略)昭和20年8月6日、広島市は原爆投下によって一瞬のうちに灰に帰した。 前年度工事を中断した広く長い1本の放水路が、一面の焼け野原の中に残っていた。」

 

(2)放水路事業の再開と概成

「太田川放水路事業を中心とする改修事業が、戦局の激化で見捨てられている最中、太田川は無常にも大いに荒れた、昭和18年と20年の大水害である。(中略) こうした状況から、広島県はすでに治水対策委員会を設置していたが、可部町から祇園町に至る下流一帯の住民たちはこれを支援するため、太田川治水期成同盟会を昭和20年9月に結成した。 地元民の猛烈な運動が実り(中略)太田川改修事業は、昭和21年に再開決定決定していた放水路工事と併せて、ここに一層大規模、総合的に推進されることになった。

しかしながら、この時すでに事態は意外な方向に進んでいた。 昭和21年、放水路開削工事再開が決定されると、関係地元民の間から工事中止の申し入れと放水路計画再検討の声明が出されていたのである。 反対理由の骨子は『放水路開削工事は戦争以前に調査、計画されたものであり、計画実施にあたっては官僚的、一方的なものである。 用地買収、家屋などの移転についても、当時の軍部の圧力などでほとんど強制的に行われた。そ そのうえ国策によって代替資産を求めるすべもなく、戦争協力によりかり立てられ、弾丸に飛行機に国債購入に投入せざるを得なかったという。また、広島市は今次大戦によって原爆による被害を受け、全市が破壊されており、放水路の位置についても再検討の必要があると認められる。』というものであった。」

 

(WEB管理者コメント・・・結局、本格的な放水路工事再開は賛否両論の後に、昭和26年まで待たなければならなかったそうです。 今となっては当たり前のようにある放水路(また放水路があるからこそ、他の派川で親水性が保たれていると感じています)でさえ、当時は色々な見方があったようですね。) 

さて、「太田川史」によるその後を書きます。

 

「昭和26年以降、放水路工事を中心とする下流地区の諸工事も急ピッチに進捗した。(中略) 昭和36年にはいよいよ放水路の要である祇園水門(可動堰)と市内派川への大芝水門(分水堰)の工事が開始された。(中略)両水門の完成は昭和40年であり、それを待って同年5月14日、待望の通水式がとりおこなわれた。 昭和42年には、一部残っていた堤防も完成し、着工してから36年の歳月と145億円(平成2年換算で約3,200億円)の巨費、そして沿川住民に少なからぬ犠牲を強いた放水路工事は概成した。 以来、太田川の名称は放水路に移り、従来の太田川(本川)は旧太田川と呼ばれることになった。」

 

(3)放水路の効果

「通水間もない昭和40年7月23日、梅雨前線の活動による洪水(4,330m3/秒)が襲ったが、放水路は微動だにせず、続く昭和47年7月の既往最大の洪水(6,800m3/秒)や昭和51年7月の洪水(5,800m3/秒)にも太田川下流部の一般被害は皆無であり、はからずも放水路事業の効果を実証することとなった。 具体的にみると、昭和18年9月の大洪水では浸水面積2,200ha、被害家屋約12,000戸に達する氾濫が生じたのに対し、これを上回る出水をみた昭和47年7月洪水では、浸水面積200ha、被害家屋は約2,000戸にとどまっている。 放水路事業は太田川下流部の安全を守るとともに、その後の広島市の発展に計り知れない効果を与えることとなった。」

出典「太田川史(建設省《現国土交通省》中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」 ※無断二次利用禁止

 

↑をクリックすると

平成17年までの効果がわかります。

ジャンプ先は「国土交通省中国河川整備局 太田川河川事務所HP

※直リンクの許可は頂いております。

 


 

(4)大芝水門と祇園水門

太田川放水路を語る上で、この二つの水門に触れないわけにはいきません。

出典「太田川河川事務所事業概要 国土交通省中国地方建設局太田川河川事務所」

※無断二次利用禁止

(WEB管理者によるコメント・・・上の写真にあるとおり、太田川放水路側に設置されているのが祇園水門、市内派川側に設置されているのが大芝水門です。はたしてこれらの水門がどのように働いているのか、考えたことがありますか? 今の計画では上の写真の「(上流)太田川」から計画高水流量7,500m3/秒が流れてきたときに、これを計画どおり太田川放水路に4,000m3/秒、市内派川に3,500m3/秒に振り分ける役目を果たします。 これが最も大きな役目ですが、平常時や渇水時の流量の振り分けについてもこの二つの水門で絶妙に管理されています。再び「太田川史」からの引用でその部分に触れます。)

「放水路分流工は当初固定堰のみを考えていたが、次のようなことから可動堰にする必要が生じた。

・放水路ができる以前の市内派川の分流状況は、旧山手川・福島川と他の市内派川との流量比が1:9で流れていた。 現在の計画では、渇水量20m3/秒を河口潮位0.16m(平均潮位)の時1:9に自然分流するものであるが、低水量・平水量・豊水量・小洪水については自然分流できず、放水路に流れる流量が多くなる。また、渇水量についても河口潮位が変われば1:9に分流できなくなる恐れがある。

今この1:9の流量比が崩れれば、各市内派川の渇水時の流況が変化する。したがって、放水路側にも可動堰を作り、本川水門とあわせて操作すれば、配分操作も十分に行われる。

・新しく開削される放水路は、従来からある市内派川に比べて川幅も広く、延長も短いので、塩水は現在よりもさらに上流に遡上し、上水取水場(広島市牛田新町)に影響することが考えられる。その他の取水にも塩害を与える恐れがあるので可動堰による操作が必要である。

・近年、都市河川の浄化が叫ばれているが(中略)広島についても下水処理の発展と同時に、フラッシュによる河川浄化が必要と考えられ、放水路に水門を設けることによってこの効果も併せ期待できる。

1)大芝水門

出典「太田川史(建設省《現国土交通省》中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」 ※無断二次利用禁止

 

2)祇園水門

出典「太田川史(建設省《現国土交通省》中国地方建設局 太田川工事事務所 平成5年3月発行」 ※無断二次利用禁止